アニメの歴史

アニメの歴史についてのブログです。

漫画とアニメの天才“手塚治虫”

“ストーリー漫画のパイオニア”であり、“テレビアニメーションの創始者”でもある“手塚治虫”は
日本が世界に誇る“漫画とアニメの天才”で、生涯に漫画作品約700タイトル(原稿にすれば約15万枚)、アニメ作品約70タイトルという膨大な量の作品を世に送り出しました。

小学校時代の彼は“田河水泡”の『のらくろ』を愛読し、自らは『ピンピン生ちゃん』という彼にとっては最初の漫画を描き上げて周囲を驚かせたり、長編漫画『支那の夜』という漫画を描いて先生たちを含めて学校中の話題になったり、ノートにパラパラ漫画を作って見せたりしていました。

小学生くらいの子供たちというのは、誰かが新しいことを始めて周りからて面白がられると、何人かが真似をし始め、いつのまにか学校中にその遊びが広まっていたりすることはよくありますが、手塚治虫の描く漫画はあまりにもレベルが高すぎて誰もその聖域を侵そうとするものはいなかったためにそれらの遊びは彼の専売特許であったようです。

軍人の父親は躾などに関してはかなり厳しかったようですが家庭は裕福で、お屋敷のような家の中は、漫画本や小説、映画など文化的なものにあふれていて彼の才能を開花させるには十分すぎるくらいの環境であったと言われています。

11歳の頃には昆虫採集に夢中になり、14歳になると自分で描いた昆虫図鑑『甲虫図譜』という絵本を作っていますが、彼の虫に対する興味や関心はその後もどんどん膨らんで行き、中学生でありながら“六陵昆虫研究会”を結成して『昆虫の世界』という本を発行したほどです。

そこで知った“オサムシ”という虫にちなんで、ペンネームを“治虫”にしたというエピソードが残っています。

17歳になると彼の通っていた学校にも戦争の影が忍び寄り、彼も他の生徒と同じように勤労動員として働かされることになるのですが、その間も自伝漫画『紙の砦』を描くなど、このような苦難の時代にも漫画に対する情熱を失うことはありませんでした。

そうこうするうちに戦争も終結し、日本に明るい兆しが見え始めるのと時を同じくして彼の黄金時代が到来することになります。